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腎不全にうまれて
〜腹膜透析から移植、血液透析導入まで〜

【第2話】ゆっくり下り坂

2015.10.15

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前回、「【第1話】怒涛の3年間」では生まれてすぐに腎不全と診断され腹膜透析の後、生体腎移植を受け無事成功。これで一安心と思ったらがんが見つかり…というところまでお話しました。
今回はがん摘出後から中学校の頃まで書こうと思います。
では、またびょんの一人語りにしばらくお付き合いください。


幼少期のこと

幸いがんは他に転移がなかったため、退院した後しばらくは毎日自宅で過ごす日々が続きました。
まだ物心がつく前なので、あまり記憶が定かではないのですが、食べ物は普通のものを食べていたような気がします。
その頃なのかは憶えていませんが、バナナに市販のレモン汁をつけて凍らせたものが好きでした。まだバナナはカリウムがたっぷりあるという知識が母にもなかった頃、そして食べ物に制限がなかった頃の懐かしい思い出です。

6才になる年の4月、保育園に入園しました。
幼稚園ではなく保育園だったのは、私の病気を期に仕事を辞めた母がまた働き始めたからです。保育園側ではほぼ普通の生活を送れているとはいえ、重い病気を抱えた子どもを受け入れるのに抵抗があったようで、この時期からの入園となりました。初めての集団生活に馴染めず1人で遊んでいることが多かった気がします。

この頃は定期的に東京のT医大に通院していました。移植の予後観察のためです。毎回新幹線で通院したのですが、障害者割引が適用されるとはいえ自分で切符を買って新幹線に乗るようになって、かなりの負担をかけていたのだということが分かるようになりました。

T医大の先生のお話は子どもなので分かりませんでしたし、覚えていないのですが、院内が絢爛豪華できらびやかだったことは覚えています。少なくともこの頃、母からもらった腎臓は立派に役割を果たしてくれていました。その後は、移植をしてくれた先生(以下K先生)の転勤に伴い、福島県いわき市の病院に通院することになります。


小学校へ入学して

保育園は何事もなく無事卒園することができましたが、小学校入学にあたり進路をどうするかという問題が発生しました。進路というのは公立か私立かということではなく、(そもそも私立の小学校が近くにありません)小学校か養護学校(今の特別支援学校)かということです。

K先生の強い奨めもあり、母は最寄りの小学校への入学を希望しました。一方、市の教育委員会は養護学校か、特別支援教室のある街中の小学校への入学を薦めたそうです。おそらくなにかあった時に責任問題になるのが怖かったのだと思います。通常、腎臓は背中の方にあり腰の骨で守られていますが、移植腎はお腹側にあり守ってくれる骨がないので、蹴られたりたたかれたりしたら大変という思いがあったようです。

結局、最寄りの小学校に特別支援教室を作り入学させることで落ち着きました。
学区内に他に2名、障がいのある子がいたため作ることになったのだそうです。
私一人だったら最寄りの小学校には入学できなかったと思います。

特別支援教室では厳しくも温かい先生に大変お世話になりました。障がいがあるからといって甘やかすということはありませんでしたが、それぞれの状態に応じた教育をしてくださいました。

時間は通常学級よりゆったりと流れていたような気がします。教室も広々としていました。ガマの穂を揉むと中から綿毛が大量にでるのですが、それを教室でやって教室中を綿毛だらけにして叱られた思い出があります。今思い出すと可笑しくなります。

私の場合、徐々に通常学級の授業に参加して3年生から完全に通常学級に入りました。初めてのクラス替えで切りがよいということと、子どもたちの成長を見ての判断だったのだろうと想像します。

この頃大変だったのは水分補給とトイレでした。移植腎を怠けさせないためにたくさん水分を摂ることが求められたため、毎日水筒にお茶を入れて持っていきました。水道水があまりよくないと言われたのと、飲んだ量を親が把握できるようにするためです。学校に水筒を持っていく人が他にいなかったので恥ずかしかったので、時々たくさん残しては母に叱られていました。

厳しい水分制限がある今は、たくさん飲めることは贅沢なことだったと思います。

また、行動が遅いことを自負していたため、授業に間に合わなかったら…と考えてトイレを我慢することもしばしばでした。

当時は透析がどういうものか良く分からず、ただ親から聞かされる「怖いもの」というイメージがあるだけでした。濃い霧の向こうに透析があって、ごく稀に少し見える時があるかなという感じでした。自分のことなのですがどこか他人事で、振り返ると腎臓にかわいそうなことをしていたなあと思います。
水疱瘡とインフルエンザに罹り入院もしました。普通の子どもなら自宅療養となるところですが、免疫抑制剤とステロイドを服用していたため重症化を懸念して入院という形になりました。

2回とも1週間程度の入院で無事退院することができました。こういう時に自分はやはり普通と違うのだと強く感じましたが、基本的にはあまり他の子との差を感じずに生活することができました。


中学へ入学、そして高校入試

透析を徐々に意識するようになったのは中学生になってからです。

1年生の時に腎生検を受けたところ腎機能の低下が見られたため、運動の全面禁止を言い渡されました。もともと運動は苦手だったので運動ができなくなったことの苦痛はありませんでしたが、みんなが跳んだり走ったりしているのをただ見ているというのは寂しいものがありました。

それより辛かったのは少しずつクレアチニンの値が高くなっていったことでした。毎月いわきに行くのは楽しみでもありましたが、良くなることのない結果を聞くのはしんどかったです。

進路について真剣に考えるようになったのは2年生の頃からです。

親の奨めもあり、将来透析になることを考えて安定している公務員になろうと思いました。1年生の頃は漠然と大学に行こうかなぁと思っていましたが、いつ具合が悪くなるか分からないということで、高校で公務員試験を受けることにしました。そして地元では公務員を多数輩出していることで有名な高校に進学することに決めました。

3年生の時には入試に備えて、病院をいわきから盛岡に変え、今まで1日休んでいたのが半日で済むようになりました。

勉強は得意な方ではなかったし、話すことはもっと苦手なので面接は苦労したような気がします。

中学校で頑張ったこと、将来公務員になりたいことを自分なりに伝えました。人生で始めてふるいにかけられるとあって入試は緊張と不安でいっぱいでした。席が先頭だったことも緊張に拍車をかけました。

そして、合格発表の日。
果たして結果は…。

次回をお楽しみに♪

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びょん

びょん

1991年岩手県生まれ。岩手県在住。生まれてまもなく先天性ネフローゼ症候群と診断され腹膜透析治療を開始し、2才半の時に母より生体腎移植を受けました。1994年春、左腎に腫瘍が見つかり(ウイルムス腫瘍)、摘出しました。23歳から血液透析導入になり現在に至ります。特技はパソコンのキーボードのタイピング。運動は苦手、読書が好きなインドア派ですが、最近の休日は腎友会青年部の仲間といろいろなところへ出かけることが多いです。透析は火曜コースの午後です。今の目標は一人暮らしできるようになることです。