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透析患者•よしいなをきの日常生活

【第11話】ボクの保存期〜今、CKDを生きるひとたちに・2

2014.2.27

文:よしいなをき

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何かの間違いではないか、という感覚

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「あの病院の先生の評判は良くないよ。急患で運ばれてきた患者さん本人に向かって「手遅れの患者なんか連れてくんな」って言ったって有名だからね」

と、アパートの大家さんは教えてくれました。

大家さんは駅前の判子屋さんをやる傍ら、学生向けアパートの経営をしていました。家賃は銀行の振込ではなく、毎月決められた日に支払いに行くというもので、すでに3年の付き合いになっていました。時々、食事をご一緒させてもらったりして家族のように接してくれました。

大家さんの話を聞いて、世の中にはいろいろな人がいるのだと考えるようにしましたが、その後、本当に色々なタイプのお医者さんがいるということに気がつく事になります。

「娘が管理栄養士の資格を持っているから、何かあれば相談するといい」

ぼんやりとしながら「はい…」と私が答えると、大家さんはこう切り出しました。

「あそこの先生が言ったことが気になるのなら、他の先生にも相談してみると良いかもしれんよ。東京の大学病院に行って、もう一度診断を受けてみたらどうだい」

当時はセカンドオピニオンという言葉はまだ無かったかもしれません。

自分の気持ちの中では、「何故、自分が」とか「こんなことになるなんて信じられない」という気持ちの方が強かったのです。このときの自分には自覚症状というものがなく、通院を始めてからも居酒屋で立ち仕事のアルバイトをしていたくらいです。居酒屋での仕事は調理の補助と皿洗いを同時にやるもので、かなりハードでした。それでも体は動いていたので、自分は病気ではないのでは、と思っていたのです。

「もしかしたら診断そのものが間違っていて、どこかで歯車がずれたまま状況が悪い方向へ動いているのではないか」と考えていました。


ボクは主治医ではないから…

ひょっとして東京で検査をし直してみたら、全く違う検査結果が出るのではないか。そういう気持ちが自分の中で大きくなっていきました。そこで友人から教えてもらい、とある大学病院で診てもらうことにしました。

尿検査と血液検査を行い、結果について大学病院の先生に話してもらいます。ところが…。

「ボクはあなたの主治医ではないので、はっきりとしたことを言うべきではないと思う。それでも言えというのなら、結果は貴方が今かかりつけにしている先生が言った通りだと思う」

「先生!間違いないのですか?」

「間違っているとか、いないとかボクからいう立場にない!詳細を知りたければ、生協の売店にボクが書いた本があるから、それを読んでみて確認してくれたまえ」

このとき、まだセカンドオピニオンが当たり前の時代ではありませんでした。だからこういうふうに患者が確認のため別の病院で診断を受けるということに対し、医師側はあまり歓迎する雰囲気はなかったのだと思います。

しかし、遠回しな言い方ですが、自分が「間違いなく慢性腎炎」ということは、当時の私にも理解できました。2つの病院で検査を受け同じような結果なのですから、よもや間違いということはないでしょう。結局、失意のうちに大学のある田舎町に戻ることになりました。


この時の慢性腎臓病に関する情報

この時は1991年の5月でした。日本国内でのインターネットの普及はまだまだ後の事です。一部のマニアの間でパソコン通信が利用されていたくらいの時代です。特定の病気のことを知るのには、書籍を買ってくるか、病気に関係する人に直接訊くしかありませんでした。

結局、私はとある大学病院の先生が書いた書籍を大学の生協で買って帰りました。

それと、大学の後輩の女の子が人工透析について知っていて色々と教えてくれました。彼女の父親が役所に勤めていて、障害者雇用支援の仕事をしていたのです。たまたま人工透析を受けている患者にコンピュータープログラミング技術を教えるということをしていて、その話を父親から教えてもらっていたというのです。

彼女の説明を聞いて、やっと人工透析のイメージを理解することができました。血液透析腹膜透析のこと。シャントのこと。定期的に通院し、長時間拘束されること。

昔見たテレビのドキュメンタリー番組で取り上げられていた映像が頭の中に浮かんできます。完全に自分の頭の中で人工透析のイメージが結び着きました。

「あれを自分がしなくてはいけないのか」

そう気がつくとただ、背筋が寒くなるばかりでした。


最初の制限食

怖かろうが辛かろうが、どうにかして食事はしなくてはなりません。当たり前に腹は減ります。「まさか自分は違う」という感覚があっても、かといってヤケ食いをする勇気も無く、そこは指導に従って食事制限をしていくことになります。

もともと居酒屋の厨房でアルバイトをしていたので、料理の「いろは」くらいは知っていました。

しかし、問題はその作る量の少なさです。初めて食事制限に従って料理をした時は、フライパンで材料を炒めるだけのものでしたが、いつも通りの火かげんにしてしまい、材料が少ないこともあって黒こげになってしまったのです。料理には自信があったので、出来たものを口にしたときとても不味くて悲しくなりました。それに塩味が足りず味気なくて、「こんな食事をこれから一人でしていくのか」と思いとても辛く感じました。


気持ちや体調のこと

以前から、疲れやすい体質だと思う事がありました。だから実際のところいつ頃から体を悪くしていたんだろうと思うようになります。

「かなり前から腎炎になっていたとすると、医者が言うように慢性化していてもう治らないのだろう」

きっともう治らない、こう考えるようになると病気に対する不安から衰弱しているのか、病気が原因で疲れやすくなっているのか、自分でも分からなくなっていました。自覚症状ではないのですが、日常的に疲れているような感じになります。

「何故、自分が、自分だけがこういう目に会うのだろう?」

そんな事ばかりが頭の中で渦巻いています。打ち寄せる波が留まらないように、終わりの無い不安に翻弄されていました。

「機械の力を借りなければ生きていけない体で、生き続けることに意味があるのだろうか」

そう友人にぼやいたこともあります。大学は卒業が近づいていました。就職先は当初の内定が出ていた通りIT企業に決まっていました。

「生きていれば、良かったと思えることが必ずある」と友人には言ってもらったのですが、その言葉もこの時は自分の支えになるとは感じません。

自分の周りにいる人たちはみな希望を持って社会人になろうとしています。でも自分だけ、スタートと同時につまずいて転がり落ちるような感覚がありました。


そして東京へ

92年3月、自分が生まれた東京に4年ぶりで帰ろうというのに、慢性腎不全を抱えた体で社会的な責任が果たせるのか、この先、いつ人工透析が始まるのか、どんな辛い人生になるのか、そんな思いを胸いっぱいに溜め込んでいました。

東京に向かう新幹線の中で、怯えるようにして車窓からの景色を眺めていました。過ぎ去る大学の街の景色を眺めながら、ここにはもう戻ることは無いのだなと感じていました。

しかし、人生はどうなるのか分かりません。悪いことしか頭にはありませんでしたが、まさかこの先の人生で、ネガティブに捉えていることがすべて反転していくとは、よもや思ってはいませんでした。

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よしいなをき

よしいなをき
透析はしていますが普段はスポーツ自転車に乗って 体を鍛えています。
仕事は、平凡なサラリーマンですが、透析の時間を利用して、ブログを書いたり、小説を書いたりしています。

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