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透析仲間の友人を増やそう
― その1:QOP向上は独力で上げるべきか

2013.7.30

文:とっぺい

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透析時間が5時間になっても、自分にとってはさほど長いとは思っていない。4時間から1時間延長になってから半年以上になる。患者仲間や、スタッフからは短くない時間、「拘束される」のはしんどくはないのかと聞かれることがあるが、特段負担には思っていない。この先の寿命に関して、貯金をしている感覚なのである。透析時間が30分でも長くなり、それが継続することは、どれ程身体に良いことであるか。健常者なら毎日24時間働いている腎臓が、透析患者では人工腎臓装置で週3回4時間だけ機能させることの意味を考えることが基本となる。残念なことに、透析時間の延長が医師から提案されたのに断る患者が存在する。この点も、患者の質=QOPの向上という問題に関わってくる。

透析中

さて、5時間透析というこの時間帯に、自分で何か有用なことをしようとは思うものの、デスクワークはやりにくい。また、施設内では無線も含めてネット接続ができないのでタブレット端末やデータブックも使えない。そんなわけで、たいていは読書かDVD鑑賞ということになる。あるいは、最近のように多忙な?日々が続いている時は、ベッドは絶好の休養の場所となる。結構、うとうととしているのである。
透析中の読書や映像鑑賞も、色々なことを考えるヒントを与えてくれる。あるSF小説の中に「独覚(どっかく)」「声聞(しょうもん)」という言葉が出てきた。どちらも仏教用語である。普段は使わない言葉ではあるが、「患者の質(QOP)」の向上手段を考える上でのイメージの上でのヒントを与えてくれた。
仏教の最終目標は、輪廻を断ち切り、悟りをひらくことであろう。とはいえ、専門家ではないので、感じたままを述べているだけであるが。さて最初は「独覚」ということから考えてみた。「独覚」は、「縁覚(えんがく)」とも呼ばれるそうであるが、指導してくれる先生無しでさとりを自分の力だけでひらいた人のことだという。「声聞」というのは、自分の力だけではなく、加えて師の教えも得ることで悟りをひらいた人のようである。どちらも、個人の内なる世界でのみ「悟り」をひらいて良しとする存在と理解した。この2つの概念が、患者の質=QOPの向上方法の考察にイメージとして結び付いたのである。
※このように、私は好奇心を原動力にして、色々な考え方を結び付けるのが好きである。空想癖が強いのかもしれない。

とっぺい空想癖

透析患者として、透析をめぐる様々な知識や哲学的な考え方を、独学や自分流の思索を深めるといった方法をとることで、QOPを上げている人がわずかながらも存在しているように感じている。いわゆる「独覚」としての透析患者である。彼は、ネット上の大量の情報の中から検索という方法で、自分の求める解への道標を見つけ出し、透析に関する知識を深めていく、あるいは、アナログとしての書物を通して、透析と自分についての関係を探究して透析生活の専門家となっていく。方法は、彼が見出したものだから、この他にも色々あるのであろう。この「独覚」という透析患者の他に、医師や技師、看護師、管理栄養士、メディカル・ソーシャルワーカーなどの医療スタッフから透析に関する知識を仕入れる方法を中心に、それに加えて独学という方法も含めてQOPを向上させている患者も存在する。「声聞」としての透析患者ということができよう。両者は、他の透析患者と関わることには関心がない。他の透析患者から話を聞いたり、あるいは、患者会に関わることにも無関心である。自己の世界だけに生きていくのであるから。

ところで、自分1人のみ「あるべき透析患者」になろうとする「独覚」の立場をどう理解したらいいのであろうか。もちろん、充実した透析ライフを過ごすために、自分の力だけでQOPを向上させることは、大変立派なことである。利己主義ではない個人主義的な生き方の基本であるのかもしれない。しかし、個人主義を出発点とする生き方も、他の人間との関わりの中で、個人だけの生活を送る枠組みを超えてより豊かな生き方ができること、また、民主主義の歴史の上でも、個人主義の上に社会契約説の考え方が発展していった経過を考えることは意味のあることである。個人の力だけでは、幸福を追求することに於いて限界があること、「個人の権利」を守り、より充実させるために、人間は社会などの集団を形成するのでもあるという視点が必要となってくるのである。その視点の基本は、集団のために個人が存在するのではなく、個人の幸福のために集団が手段として存在するということなのである。人間は、過ちを犯す存在であるから、過去には、個人は集団のために存在するといった間違いを犯した歴史がある。将来にもそうしたリスクのあることも常に警戒する必要がある。個人が尊重される社会が目指されるべきで、その点では、「黄金律」の考え方が参考となる。つまりは、他人にしてもらいたいことを他人にする、他人にしてもらいたくないことは他人に行わないというルールである。

話は、かなり脱線気味であるが、声聞独覚ということは、我が国のような大乗仏教の考え方からは、高い評価が与えられていない。1人だけ悟りをひらいても、その段階で留まり、他の人間との関わり合いが無視されるのなら、それは独りよがりの行為に過ぎないのではないか、そんな風に考えられていたのかもしれない。

QOPの向上のためには、自分1人での努力も必要であるが、人が社会的動物である限り、人との交流を通してのQOPの向上がなければ、より豊かな透析ライフは送ることができないのではないか、そんなイメージが「独覚」「声聞」という言葉の意味を考えていく上で深まっていった。仏教的考え方では、「縁」という言葉にも関係してくる。透析のある日は、着替えの時間も含めて、クリニックで他の患者やスタッフと同じ空間にいる時間が、家族と比べても多くなっている。長時間、同じ時空を共有していることになる。これも深い「縁」である。だからこそ、せっかくの「縁」だからこそ、挨拶から始まる最低限のコミュニケーションがお互い患者同士で在っても良いのではないか、その先にコミュニケーションの深まりがあるのであれば、QOPも他者との関わり合いでより豊かなものになっていくのではないか。そんな視点で、次回は「透析社会は社会の縮図」というテーマで考察したいと思っている。

とっぺい

とっぺい
私、とっぺいは、高校生の時に学校の尿検査で慢性腎臓病が判明してから長い保存期を経て、1999年の末頃に透析導入と相成りました。従って透析歴は今年で13年目ということになります。現在は、週3回の5時間透析を行っています。社会の縮図である透析患者の世界の中で生きていきながら、色々な視点から透析のことを考えています。患者運動に関わりながら、透析文化の可能性を考えています。再生医療の進歩により、いずれは透析が必要とされない世の中が意外と早く来るかもしれません。その日に出会えるかはわかりませんが、仲間と一緒に透析を理解しながら、しっかりとした治療を受けて一日でも長生きすることで歴史的転換点をこの目で見たいと希望しています。その間には、透析技術も進歩していくでしょう。透析をするために生きているのではなく、人間らしく生きるために透析を受けているということを意識しながら、元気で長生きしましょう。

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