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私の腎臓日記

【第3話・最終回】世界の広さ…そして今

2018.10.15

文:小沢里央

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世界移植者スポーツ大会ハンガリー大会 開会式直前の様子世界移植者スポーツ大会ハンガリー大会 開会式直前の様子

20歳の思い出

20歳を迎えた1995年は、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件があった年でした。
この頃に初めてアルバイトを経験、月末になるとアルバイト仲間や社員さんと飲み会しました。若かったこともあり、お酒の飲み方が荒かったです。「たまにはいいよね? 移植した腎臓、消毒しなきゃ?!」と変な理屈を言い、お酒が顔に出ないのをいいことに呑んでいました。
他には、アルバイト先で知り合った同僚の中にライブハウスで歌っている人がいたので応援しに行ったり、幼なじみに誘われてクリスマスパーティーに参加したりしていました。今では楽しかった思い出です。

20歳になりました。20歳になりました。


全国移植者スポーツ大会に初参加

22歳の頃、移植者の患者会に誘われ入会しました。
その患者会で知り合った方から「全国移植者スポーツ大会」の存在を教えてもらい、その年の静岡大会に参加しました。バウンドテニスという競技にダブルスを組んで出場し、結果はなんと2位、初参加での快挙です。
その大会で「世界移植者スポーツ大会」という2年に1回行われるスポーツの祭典も教えてもらい、24歳の時のハンガリーでの大会に参加することになります。


そして世界移植者スポーツ大会へ

成田国際空港組と関西国際空港組とに分かれて出国しドイツで合流、ハンガリーには参加者全員揃って入国しました。
参加者には、移植者の他にその家族やチームドクター、看護師さん、そして日本臓器移植ネットワーク広報の雁瀬さんなどがいらっしゃいました。
私は一人でしかも初めての参加で、実のところ不安でいっぱいでした。参加者の半数以上が初対面だったので「大丈夫だろうか…」と落ち着かなかったのですが、皆さんが気さくに話しかけてくれて、嬉しかったことを覚えています。
このスポーツ大会はオリンピックと同じように開会式や閉会式があります。
私は2つの競技に参加しました。結果はともかく、最終日にはガラパーティーがあり、参加者全員で食事をしたり、音楽に合わせて踊ったり、おしゃべりをしたりして楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。

大会が終わった後は帰国せずにスイス旅行も楽しみました。オプションを申し込んでいたんです。
その翌年と翌々年、どちらも神戸で開催された全国移植者スポーツ大会と世界移植者スポーツ大会に続けて参加しました。


ひとり暮らしの始まり

実家を出てから姉と同居していましたが、姉の結婚を機に本格的なひとり暮らしを始めました。
しかし、楽しいことは続かないものです。一人暮らしを始めた年のちょうど外来の日に拒絶反応を起こして入院しました。
自覚症状もなく普段通りに検査し、普段通り診察室へ。いつもより険しい表情の先生から「クレアチニンが高くなっているからなるべく早く入院するように」と告げられました。あまりにも突然で驚き躊躇していたら「今日、今から入院!!」と言われ、予想外かつ急過ぎる入院でしたが、その後無事に退院しました。
退院後はホテル日航東京で開催された日本移植学会に参加しました。医療従事者、移植関係者、患者、その家族と参加者が多い学会でした。


ステロイドの副作用

29歳になる年、当時の主治医が私の通う病院を退職してしまいました。残る患者さんもいれば、主治医の勤務先に転院した患者さんもいれば、まったく違う病院に転院した患者さんもいるようでした。
そんな中、それまでの病院に残ることを選んだ私は、次の担当医の様子を見ながら通院していました。しかし32歳になる年、今思えば自分のわがままですが、担当医とは相性が悪く感じてしまいT大学附属病院に転院することにしました。
ここで以前の体験が再発。金縛りや幻聴などの怪奇現象に悩まされたのです。それから、ステロイド剤を終了し透析導入するまで予想外の闘いが続くことになりました。
当時この事を誰にも相談できず、34歳の頃に症状が悪化し、昼間でも夜でも他人の声が聴こえる状態になりました。思い返せば自分の声だったのですが…。他人が見れば、ぶつぶつと何か言っているように見えたと思います。

そんな状態を見た両親は、何かおかしくなっていると考えていたようです。移植した時に看護学生さんだった紀子さん(第2話に登場した看護学生さんです)に相談し、渋谷区内にあるメンタルクリニックを紹介してもらいました。そこで「ステロイド精神病だろう」と診断されましたが、ステロイド剤はすぐには止められないので、気分を穏やかにする薬や寝つきをよくする薬、気分を落ち着かせる薬などを処方してもらいました。
現在はステロイド剤を終了して3年経ち大分良くなりましたが、まだそのクリニックには通院しています。


移植25年目、とうとう透析導入

34歳の年の夏に姪ができ喜んでいましたが、その姪が1歳になる頃風邪をひきお手伝いに行ったところ、あろうことがその風邪がうつり肺炎へ悪化、入院となりました。姪は軽くすんで良かったですが…。
その4年後には双子の甥ができましたが、片方でも体調が悪いとお手伝いは頼まれなくなりました。

移植して25年目の39歳、とうとう透析導入のためシャントをつくることになり、入院しました。とたんに急激に腎機能が低下し、そのまま透析を導入となりました。 その頃、移植者の患者会で知り合った方たちから、透析になったとたん亡くなった方の話を聞いてしまいました。勉強不足なうえ勝手な思い込みで「透析=死」のイメージができてしまい、透析初日は取り乱しました。 それでも回数を重ねるごとに身体が軽くなることを実感し、初日に取り乱したのがウソのように慣れていきました。


透析導入後の生活

41歳の年末、移植した腎臓の痛みで検査をした結果、腎盂がんの疑いありと言われて再び入院しました。しかし結果は白で、ホッとしたことを覚えています。

結果を聞いた2日後にじんラボのピアサポーター養成講座を受け、新たな仲間ができました。

42歳のなる年の春、宮古島へ1週間の旅行をしました。私が透析をするようになって初めて体験した少し長い旅行です。初めての旅行透析先の病院では、おおらかなスタッフに迎えられました。予定していた3回の透析も無事に終わり、楽しい旅行でした。
現在は透析4年目に入っています。花が好きなので、フラワーアレンジメント教室へ通ったりして過ごしています。

今、こうして振り返ってみると色々なことがあったなぁ〜と思います。
保存期(35歳の頃)にちゃんと勉強して、もっと食事に気を使い、移植した腎臓をねぎらっていたらもう少し頑張ってくれたかな、と思います。提供してくれた母に申し訳ない気持ちを含め、反省と後悔はありますが、今後も私らしく日々を過ごしていけたらと思います。
これからも、あたたかく見守って助けて下さい(主に家族や、関係者への私からのお願いです…笑)。
そして最後に、私のこの経験が誰かの勇気や知識の一端になればと思います。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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小沢里央

小沢里央
私は移植と透析の両方を体験しています。
生後7カ月の時に腎臓が悪いことが発覚。徐々に悪くなり中学2年のとき生体腎移植を受けました。その25年後には透析をしなければならなくなり、透析を始めて4年が経ちました。今は週3日5時間透析を受けています。
お花が好きなのでフラワーアレンジメント教室へ通ったり、旅行をするなどして毎日過ごしています。
これから私の日記を開いてお見せしていきたいと思います。

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